「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、ひさしくとどまりたる例しなし。世の中にある人のすみかと、またかくのごとし。」鴨長明の方丈記の冒頭です。
中学の時、国語で古典をやりはじめ、漢詩とか日本の古典に興味を持った中で方丈記はそそられた。
おれは子供の頃から、仙人みたいな人に憧れ?尊敬?幻想があって、鴨長明の隠居、世捨てっぷりはそのものだった。
財産も地位も捨て、山奥に小さな庵を結び隠居とも隠遁とも厭世的ともいえる生活を50代になってはじめた長明の目指していたのは「こだわりを捨てる事」だった。50歳で出家し、四畳半ほどの家を建て仏を奉り、自然の中に生きようとした。
方丈記は、思い出の記で、そのすべてが世の移ろいで行くさまをかいている、長明は下級貴族で神官の世襲の家の生まれで、なに不自由なく生活していたが、その世襲をする事ができず、ひきこもりになってしまったらしい。
つまり引きこもりから、出家し世捨て人になった訳だ。蒸発とか失踪に近かったらしい。「こだわりを捨てる」というのは、仏教の最大の目的であって、それが出来たら悟りを開く事になる。しかし、悟りを開いたのは今までにブッダしかいない。
人は欲望、欲、そしてそれに対するこだわりで生きている、ある時は必要以上に執着して、欲の深い行動、行為をしている。しかしそれに自分は気がついていない場合が多く、その欲求が満たせないのを罵り、恨み、その欲望を達成した者に嫉妬し、妬む。
日々、欲望にかられ生きているのは千年前も二千年前も変わらないだろうし、それが生命というものでもある。
欲望や本能が悪い訳ではなく、それによって生まれる感情なり、状況の違いが暗黒面を作り出し、知らず知らず苦悩を生んでしまうのだろうと思う。
何にしても、そういういろいろなこだわりをどこまで捨てられるかが、修行なんだろう。
死んだら、何もあの世に持っていく訳じゃない、いろいろな霊的な話だと記憶が残るという事になる。ああすればよかった、あーだったこうだったという記憶とそれに対する感情が、そしてそれは何も死んでからではなく、生きていく事がそれの積み重ねなのだ。
方丈記の結びで、「・・・・もともと前世からの貧賤のむくいが、悩みを起こしているのか。それともまた、迷いの心が起こって来て、狂わせているのか」その時、私の心は、何一つ答えることなく、ただ、そっと口の中で、何気なく「南無阿弥陀仏」と念仏を二、三べん唱えた事だった。」
自分の心の内に起こる苦悩に対して、それを苦悩と感じるのか、ただ学習していくための記憶なのか、それは個人差があってわからない事だ、後悔や反省と苦悩とはまた違うし、心のありようを清くしたいというのは、また別の事だろうと思う。
心の有り様というのは、人間関係の中でも出てくるが、やはり個人的、内面的な事なんだろうと思う。孤独に生きても、人は苦悩するのだから。
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