2007年1月21日 (日)

愛我心 ヘルマン・ヘッセ

Hesse

ドイツ語で、「アイゲンシン」という言葉があるそうで、意味は「自分自身の」とか「独自の」「生来の」と言った意味で、「わがまま」「意地っ張り」「強情」と言った悪い意味で使われる方が多いそうだ。

ヘッセは「アイゲンジン」を自分が愛する徳の一つだと言っている。自分の中の法則、「自分」の「心」に服従する事、そうしないから人は不幸になるのだとヘッセは書いている。ヘッセは人並みはずれた自我と生命力と持った人だったため、さまざまな葛藤を繰り返す事になる。

「アイゲンジン(愛我心)」は、自分自身を生き、自分の人生を死ぬ。それが私達の使命なのだ。ヘッセは、一本の木がその木であるように、誰かの真似をして生きたり、みんなと同じに生きようとするのは間違っている。と主張するが、それは、孤独と苦悩の道である。「荒野の狼」は、孤独と苦悩に満ちている。ヘッセ的生き方というか、やはり孤高の人は、その自我の強さゆえの苦しみは、それ自体が道になるのだろうか。

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2006年2月26日 (日)

荒野のおおかみ1

ヘッセの父は宣教師、母方も宣教師というバリバリのキリスト教宗教家の家柄の生まれである。

反抗的で夢見がちな少年を両親は宗教家にしようと、神学校入学資格取得者を輩出させるので定評のある学校に入れる。今なら有名予備校かなんか、そこの先生はよかったんで、神学校に合格したが、まもなく脱走事件を起こしノイローゼ(今なら鬱)とされ精神療法を受けていたが、それがさらに苦痛で自殺未遂、別の学校もだめ、仕事についても駄目で、工場の見習い工になりやっと落ち着いてきて18才の時、書店の店員になり仕事のかたわらむさぼるように本を読み、自費出版で詩集を出し始めるのである。

「詩人になるか、さもなくば何にもなりたくない」ヘッセ13才の時。そしてメチャクチャな15~18才であった。

「車輪の下」は、悲痛な少年時代を葬り、それ以後の自己を肯定しようとしたのである。40才頃までは、生きる姿勢を書いているといっていい。「得体の知れない歯車」は、自分自身の中にあり、それを解明する事が人生の意義であるとうったえかけている「デミアン」は、内面的で宗教がらみになっている。それより3年後、45才の時「シッダールタ」を出版する。つまりブッダの出家以前の名で、求道者の体験の奥義を探ろうとした。文体や内容的にひとつの頂点を極める、文学的なものである。多くの国で訳され受け入れられている。1922年(大正12年)。

プロの宗教家ではないが、宣教師でインド学者の祖父やインド宣教師の経験もある父の影響を多大に受けているヘッセの、求道者としてのひとつの答えが「シッダールタ」なら「荒野の狼」は生の人間くささあふれている。

おれは宗教的な求道者的ストイックさに尊敬の思いはあるが、信仰心というのがまったく理解できなかった、信仰というのには抵抗があった。

神学校でぶっ壊されなければ、ヘッセは信仰心の深い優秀な宗教家になっていたんだろうか?「シッダールタ」の後、妻と離婚、」第一次世界大戦も終わり、ソ連誕生、時代は混沌としていた。20才ぐらい下の女流作家と結婚、すぐ離婚となり50才を向かえ、「荒野の狼」は書かれる、文体は小説的で、ハリー・ハラーというアウトサイダーのオヤジの話である。

「ハリー・ハラーの手記 狂人のためだけに」ではじまる。混沌としたものだ。

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2006年2月20日 (月)

デミアン

「車輪の下」は、青春くさい書であるが、強烈だった。順番に「春の嵐」「クヌルプ「青春は美わし」と読んだが、どうという事はなかった。ドップリ青春である。恋に、放浪に、素朴で美しく、なつかしくも甘酸っぱい感じだ。ヘッセは成功して子供にも恵まれ、自然志向のスローライフ化していった。

惰性で読んでいて高校時代に、いちど熱は冷め、次の「デミアン」を読んだのは、20才の時だった。

ヘッセは象徴的に人生の葛藤を提示し、作者が読者に意思の疎通として語りかける手法を用います。内在する葛藤を意識させ認識させていき、克服しようと思わせるので、さまざまに解釈されるそうです。その代表作が「車輪の下」「デミアン」「荒野の狼」だそうです。

あらすじ

「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」の冒頭から始まる。

10才の少年シンクレールは、恵まれた明るい家庭にいた。不良に憧れ仲間入り、からかわれパシリになりカツアゲされ悪の手先になる。そこへ転校してきたデミアンに助けられ、キリスト教とは違う考えでカインとアベルについて話し、カインの印という新しい世界観を示す。そしてどこかへ行ってしまう。高校で偏屈孤独な皮肉屋になっていたシンクレールは、ある少女との出会いがきっかけで、デミアンへの憧れを思い出す?そして象徴的な夢、タカの雛が卵の殻を破り飛び出そうとする夢を見る。その絵を描き、居場所のわからないデミアンに送ると、ある日自分の本の間に紙切れを見つける。「鳥は卵から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。」神であり、悪魔である分りずらい神アクプラサスについて音楽家ピストリウスと語るが、その影響からも決別していく。そして大学で、デミアンとの再会が訪れる、デミアンは、精神的発展やら新しい世界や、新しい生き方を語り、旧態的なキリスト教やヨーロッパを批判する。そして戦争が始まるとデミアンもシンクレールも出兵する。野戦病院で再会し、デミアンはシンクレールに別れを告げる。「シンクレールは今はまったく彼に、私の友であり、導き手である彼に似ている自分自身の姿が、みえるのである。」でおしまい。

あらすじを追ってみるとチンケな話だなこれ。しかし、20才当時の自分は、精神的に進歩したかったし、成長したかったんで、熱心に読んだ。しかし、本編よりはしがきが良かった。

「すべての人間の生活は、自分自身への道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である。どんな人もかつて完全に彼自分ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうと努めている。、、、、各人みな、人間に向かっての自然の一投である。みんな、その深みからの一つの試みとして一投として、自己の目標に向かって努力している。我々はたがいに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない。」

当時の自分には心強い言葉だった。今読むとオモッ苦しいし堅いな、文学だからなぁ。

心理学者のユングとの交流、妻の心の病、祖父がインド学者で、インドや仏教の影響、などから「デミアン」は書かれ、70年代前後のヒッピーの愛読書となる「荒野の狼」に向かって行く。、イージーライダーのテーマ「ワイルドにいこうぜ!」はスタッペンウルフ(荒野の狼)だ。

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2006年2月17日 (金)

車輪の下

郷愁は旺文社文庫だった。辞書なんか出している堅い出版社だ。本の終わりにヘッセの代表作の解説や年譜が載っていた。それが読みたくなったきっかけの一つだった。

「車輪の下」 主人公は利発な少年ハンス、彼は親や大人達の野心から、過酷な受験に受かり神学校に入学する。そこで、自由奔放なハイルナーに出会う、ハイルナーは規則や利己的な教授に反抗し退学していく。ハンスは、気力を失い、衰弱していく。自分を見失い、病気になって、故郷に帰る。そして淡い恋も終わり、工場の見習いになる。仕事帰り、酒を飲んで川にはまって静かに死んでしまう。

ハンスもハイルナーもヘッセ自身であり、自伝的要素が強く、自分自身の恩根を葬るためにハンスを葬った。

おれは、車輪に踏み潰され死んでしまったというのがショックだった。まじめで純な少年が、「得体の知れない歯車」に、徐々に破壊されていく話だ。寄宿舎制度の神学校だからとは思わない、学校だからでもない。おれは当時、すでにはずれていて、絵の勉強なんかといいつつ絵を描いたり、読みたい本なんかを読んでいたが、そういう事にも、窮屈感があった。

「得体の知れない巨大な歯車」に対する窮屈さ、そしてそれが何なのか?どうすればいいのか?自分自身の中で矛盾している何かに気づいた。

自分自身の少年を葬ったヘッセは、それを追求した。

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2006年2月16日 (木)

今日は雨だった。霧雨というやつだ。

「雨の雫を目で追う苦しさ」

このフレーズは自分で考えたのか、なんかで読んだのかわからないが、雨が降ると思い浮かぶ。自分のイメージでは、子供が家の中で、外へ遊びに行けないもどかしさと、ボンヤリした感じで、雨どいから落ちる雫を、目で追って遊んでいる感じだ。

俺は一応、趣味と聞かれたら、読書とか答えてるが、やはりだいたい15才から25才ぐらいに集中して読んだ本が、根強く残っている。そのほとんどが、その時すでに古い本だった。文庫本がほとんどである。

ヘルマン・ヘッセはかなり読んだ。最初に読んだのは「郷愁」で、高校1年の時、10冊100円とかで店の外のワゴンに積まれているのを買った中の一冊だった。ペーターという主人公は物書きであって、ヘッセ自身なのだ。27歳の作でこれが出世作となるが、郷愁、(ノソタルジア)な感じが、全体をつらぬいている。要点とか、作品の意図をつかむどころか、読むのが精一杯だったが、気になって読んでみたかった「車輪の下」を読みたい。と思わせる橋渡しになった。郷愁は今読んでも、長ったらしいつぶやきで、やはり読みづらい物ではある。

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