2008年8月15日 (金)

般若心経の翻訳

とりあえず、宮元啓一さんの解説をたどってみると

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。

聖なる観自在菩薩(観音菩薩=ヒンズー教のヴィシュヌ神=救済神)は、

深い般若波羅蜜(智慧の完成)という行を修していたとき、

(われわれの心身を構成する)集まりのは五つあると見極めた。

そして、彼は、それらが本体を欠いている(本体空)と見てとった。

舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。

ここでシャーリプットラよ、色形は、そのものずばり空なるものであり、

そのものずばり、空なるものこそが、色形なのであり、

そのものずばり空なるものは、色形と異なることなく、

色形は、そのものずばり空なるものと異なることなく、

およそ色形なるものは、そのものずばり空なるものであり、

およそそのものずばり空なるものは、色形なるものであり、

(五つの集まりのうち、色形以外の)感受作用も識別作用も記憶力などの判断作用もこれとまったく同じである。

※色形(身体)は、実体はないのですが、かと言って身体を離れて存在しているのでもありません。

舎利子。是諸法空想。不生不滅。不垢不浄。不増不減。

ここで、シャーリプットラよ、すべての事象は空であることを特質とし、生じることもなく、

滅することもなく、汚れもなく、汚れのないものでもなく、欠損があるのでもなく、完全に満ちているのでもない。

是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味蝕法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。

それゆえシャーリプットラよ、(すべての事象が)空であるからには、

色形もなく、感受作用もなく、識別作用もなく、記憶などの作用もなく、判断作用もなく、

眼もなく、鼻もなく、舌もなく、身体(皮膚)もなく、意(内官)もなく、色形もなく、音声もなく、香りもなく、味もなく、感触もなく、考えられるべき対象もなく、

眼という要素からはじまって、意識という要素にいたる(認識を構成する18の要素)もなく、

明知もなく、無明もなく、明知が壊れることもなく、無明が壊れることもなく、

ということからはじまって(12因縁の最後の項目である)老死もなく、老死が壊れることもなく、苦(聖諦)もなく、(苦)集(聖諦)もなく、(苦)滅(聖諦)もなく、(苦滅)道(聖諦)もなく、智慧もなく、(涅槃への)到達もない。

※十二因縁(無明、行、識、名色、六入、蝕、受、愛、取、有、生、老死)とは根本的な生存欲から、苦しみとして輪廻的生存にいたる因果を、ブッダが説いたもの、

※四聖諦説(苦、集、滅、道)という、ブッダが説いたものもなく、智慧も、涅槃への到達もない、という逆説。

以無所得故。菩提薩垂。依般若波羅蜜多故。心無罫疑。無罫疑故。無有恐怖。遠離(一切)顛倒夢想。究境涅槃。

それゆえ、(涅槃への)到達がないことのゆえに、菩薩は般若波羅蜜に依拠して心に覆いのないものとなる。

心に覆いがなくなるから、(菩薩は)畏怖することなく、迷乱を乗り越え、涅槃に安住したものとなる。

(涅槃への到達もないと見極めてこそ、涅槃における安住がある、という逆説・反転の発想)

三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿振多羅三藐三菩提。

(過去世、未来世、現代世)三世にそれぞれに、ましますすべての仏たちは、般若波羅蜜に依拠して、この上ない正しい目覚めにしっかりと目覚められたのである。

(ブッダ以前にも悟られた方がいたに違いないし、これから未来にもいるだろう。

誓いの言葉を守りぬくという波羅蜜によって成就された。)

故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真実。不虚故。

それゆえ、次のように知るべきである。

すなわち、般若波羅蜜は大いなる真実の言葉(マントラ、真言)であり、

大いなる明知による真実の言葉であり、この上ない真実の言葉であり、比類ない真実の言葉であり、すべての苦しみを鎮めるものであり、過つことがないゆえに(すべての願望を成就する力をもつ)真実(のことば)である、と。

※作者はこの、「過つことがないゆえに(すべての願望を成就する力をもつ)真実(のことば)である。」というのが、般若心経の本当のメッセージだと言っています。

説般若波羅蜜多。即説咒曰。

掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提僧沙訶

般若波羅蜜と同じことを意味する、真実の言葉としての呪文が説かれている。

それは次のごとくである。すなわち、

往くことよ、往くことよ、彼岸に行くことよ、

彼岸に完全に往くことよ、目覚めに幸あれ

※般若波羅蜜という修行をしなくても、この呪文を唱えるだけでいいと言っているのです。

ブッダの行って説いた「戒定慧の三学」という修行体系とは、

まったく別の誓いを守り抜いて真実にする、そしてそれが大願をも成就する力の源泉だと。

そして、最後に呪文を唱えれば、般若波羅蜜を達成したのと同じ力を得られる、と書かれている。

まさに、大乗仏教なのです。

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2008年8月12日 (火)

般若心経について

宮元啓一著「般若心経とは何か」

般若心経の成り立ちは、ゴーダマ・ブッダの行っていた修行とは、別の要素が重なり合い、発展していったものであり、不明な点が多い。

「空」の智慧を解いての、最後のマントラ(呪文)への結びも、文脈的におかしい点があるらしい。

つまり、マントラと空の思想にどんな関係があるのか?不明な点が多いのである。

紀元前2,3世紀頃から、大乗仏教が盛んになってきた。

個人的な解脱を目指す、小乗仏教と広く人々の救済を求める大乗仏教の違い、が元々の「戒定慧の三学」とは違う思想を生んでいった。

①讃仏乗という大衆運動の中から、理想的な修行者として菩薩という概念が生まれた。

②菩薩=目覚めを目指す人

③インドに古くからあった「誓言=真言=日本でいう言霊(ことだま)」という思想が、反映されていく。

④「生前物語」という創作されたもので、ブッダが無数の前世において、さまざまな徳目(誓言)を波羅蜜(何が何でも守り通す)した結果悟られたという事になった。

ブッダは6年間苦行をした後、身を修め(戒) 根本的な事実を徹底的に観察、思考して(定)完全な智慧を得て、仏になったのだ。

徳目を守り通したとかではない。

波羅蜜=何が何でも守り通す

という、波羅蜜に専念する人々をさして、「菩薩」という

菩薩は波羅蜜によって、みずから仏になり、民衆の苦しみを取り除いて救済するという大乗仏教的な修行理念が完成された。

いろいろな波羅蜜が、唱えられた 

六波羅蜜 

・布施波羅蜜 布施をやり続ける

・持戒波羅蜜 五戒を徹底的に守る

・忍辱波羅蜜 苦難、屈辱に耐え忍ぶ

・精進波羅蜜 仏道修行に一心不乱に慢心する

・禅定波羅蜜 徹底的に瞑想に打ち込む

・智慧波羅蜜 正しい物の見方を身に付ける

波羅蜜は、しかるべき徳目を守るという、誓いをたて、それを真実として成就するというもの

大乗仏教は、難行苦行ではなく、誰でもできるという修行である。

考えぬく、という智慧波羅蜜は、膨大な経典が書かれ、その中身はすべての事象が空であるという事の徹底的な理解だった。

智慧=般若

般若波羅蜜=智慧を何が何でも守り通す=智慧を完成させる

となる。

般若波羅蜜多心経

=智慧の完成の真髄を説いた経典

「大般若経」など莫大な量の、般若波羅蜜を主題にした経典の心髄であると主張しているのである。

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2008年8月10日 (日)

般若心経について

初期仏教の修行体系は出家を前提にしていた。

戒定慧の三学(基本的な教え、修行方)  五戒 ・殺生しない ・配偶者以外とセックスしない ・嘘をつかない、約束は守る ・酒を飲まない

善悪は、どちらも業であり、それを超越する事は、善悪のない領域に達する事なので、まず善悪のけじめを徹底的につける事で、清素で安定した心を養うために、厳しい戒律を作ったというこで、善意をする事が直接的な目的だはないようです。

「苦しみは、何を原因として生じ、どうすれば、それを最終的に解脱できるか」がブッダのテーマであり、目的である。

ブッダ自身は、実存的、経験論者で、抽象的ではなかった。

仏教、ブッダの基本思想

・輪廻的な生存、人生は苦に満ちている

・四苦八苦 (生老病死  愛別離苦 怨憎火会苦 求不得苦 五陰盛苦)

・四聖諦観 人生は苦である  苦には原因がある  それは生存欲である  その原因を滅せば苦は無くなる  その方法はある

・無常観  明日がある保証はない

・非我観  常住不変な自己などなく、本当の自分をはっきりと見て知る事

・・・と、半分近くまできても、仏教の基本理念の話です。

どうも、初期仏教と般若心経は違うっぽいみたいです。

51wmsazswxl_ss500_1 どうなんだ?

般若心経は空の思想ですので、ちょっと何かが違います。何が違うんだろう?

仏教の坊さんではなく、インド哲学の教授が書いた本で、客観的な考察でおもしろいのですが、半分近くなっても、般若心経とは?がでてきません。

が、仏教の基本的要素についての要点は、今まで読んだものの中でもわかりやすいです。

時代背景やヒンズー教、もともとのインド哲学の話など絡んでの、検証です。

直訳、解説とは違い、事実を追っています。

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2008年8月 9日 (土)

般若心経について

般若心経について興味がでたので、何冊か読んでいると、結局、

仏教について   ブッダについて  ブッダが何をどうして、どうなった?かについて

など、問い直す事になっていく

当時の一般的な考え方としての  輪廻があり

輪廻 ← 行為(業) ← 欲望

という仕組みとされていたので

欲望の滅 → 業の滅 → 輪廻の滅(=苦の滅=解脱)  となる。

まず、思考と感情の停止をめざす、瞑想の修行したブッダは、それが一時的でしかない事に気づいてやめます。

次に、苦行に明け暮れますが、苦行をしても欲望はなくならないと気づきます。

そして、再び瞑想に入り悟ります。

今度は、思考の停止ではなく、考えぬく事をしました。

どう考えたのか?

欲望を引き起こす根元的なものについて

根元的な生存欲を「渇愛」とか「疑」とか「無明」とよんで、コントロール不可能とした

輪廻 ← 善悪の業 ← 欲望 ← 根本的な生存欲(渇愛、疑、無明)

というメカニズムを発見した。

根本的な生存欲 → 欲望の滅 → 業の滅 → 輪廻の滅(解脱)

根本的な生存欲を滅するには、どうしたらいいのか?

無知だった状態からの脱却、  それを可能にするのが無知の対極にある「智慧」を獲得する事、

つまり「般若波羅蜜多=智慧の完成」へと導いていく

輪廻の究極的な原因は生存欲であり、それを滅するのは智慧であり、その為には輪廻的な生存にまつわるあらゆる経験的な事実を徹底的に観察、考察しなければならない。

というのがブッダの独創性であり、仏教の根本的な思想となった。

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2008年7月 2日 (水)

無い。という答えを知るという事

般若心経の要点は、智慧(知恵)の完成=悟り という事になる。

「物事の心理を見抜く力の完成」とは、

無い事を認識する。

無いを実感する。

無いを理解する。

という事になり、仏教的な基本思想の‘無‘が説かれている。

つまり、答えは「無、無いです」と言ってから、

さあ、じゃあ、なんで無いのか考えてください。という事になる。

つまり、修行とはいろいろな物事を無くして行く事になる。

無いという状況を想像して見て下さい。

多分、出来ません。

じゃあ、100億年後を想像して下さい。100億年前でもいいです。

そういう、無い状態の想像を続けても

無くならないでしょう。

本当に悟っているのかどうなのかわかりませんが、

つまり、精神状態の有り方を目指している事になります。

精神状態の有り方を研究して、

人間の心、精神構造の変化について、たけていたのかもしれません。

そういう事を突き詰めていくと、‘無‘だと、

散々、いろいろ考え、迷い、悩み、苦しんでも、‘無い‘

無い、という事が苦しみを取り除く事である。

という事になる。

でも、これって人間として、生物としての宿命だし、

でも、つまり、こういう事を「智慧の完成」としている

なんか、引っかかるんだけどなぁ・・・

勉強して見るか?

でも、基本は修行なんだろう。

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2008年6月23日 (月)

般若心経について

般若心経の訳

観音様は深淵な「智慧の完成(般若波羅蜜多)」の修行をされ、

次のように見極められました。

私というのが存在していると思っているが、実際には

5つの要素「五蘊(五陰)」色、受、想、行、識であり

しかもそれらの5つの要素も幻のように実体がないのだ

そしてこの智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出す事ができました。

「深淵な智慧の完成の修行はどのように学べばよいのでしょうか?」舎利子(シャーリプトラ)

「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、

かと言って真実の姿は我々が見ている体を離れて存在する訳ではありません

体は実体がないという有り方で存在しているのであり、

実体がないという有り方が体の真実の姿なのです。

これは体だけでなく感覚やイメージ、連想や思考も同じです。

シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、

生まれることも、なくなることもありません。

汚れているとか、清らかであるとかいう事もありません。

迷いが減ったり、福徳が増えたりする事もありません。

このような実体のないのだ、という高い認識の境地からすれば、

体も感覚もイメージも連想も思考もありません。

目、耳、鼻、舌、皮膚といった感覚や心もなく、

色や形、音、匂い、味、触感といった感覚の対象も

様々な心の思いもありません。

目に映る世界から、心の世界まですべてありません。

認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。

同様に老いも死もないし、老いも死もなくなることはありません。

苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。

知る事も、修行の成果を得ることもありません。

このような境地ですから、菩薩様達は「智慧の完成」によって、心に妨げがありません。

心に妨げがないので恐れもありません。

誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。

過去、現在、未来のすべての仏様も、この「智慧の完成」によって、

この上なく完全に目覚められたのです。

ですから知らないといけません。

「智慧の完成」は大いなる真言、大いなる悟りの、

最高の、他に比べるものもない真言であり、

すべての苦しみを取り除くものであり、偽りがないので確実に効果のあるものなのです。

さあ、「智慧の完成」の真言はこうです。

「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ポーディ、スヴァーハー」

(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された智慧よ、悟りをもたらしたまえ)

般若波羅蜜多=智慧の完成

ないのに、なくなる事はないし、無いと言う有り方だという・・・般若心経には、仏教テーストが詰まってる聞いてましたが、調べてみると問答なんですねぇ、やはり。

現実的、日常的な考えと違う・・・こぉ・・・時間を止めて、空間を異常に広く意識したり・・・

なんか、こぉ・・・とらえ方を変えるというか、チャンネルを変えるというか・・・、ちょっと・・・もしかしたら・・・そういう事なのか・・・?

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2008年6月16日 (月)

五陰盛苦(ごうんじょうく)

仏様の教えの中で、四苦八苦ってのがあったと思い出し

生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、と・・・

最後が浮かばず調べた

五陰盛苦というものだった。

五陰とは、

「色」物質的な肉体

「受」感覚、知覚、印象などを受け入れる作用

「想」受け入れた感覚を思い出す作用

「行」思いを行動で表す事

「識」認識し識別する作用

他の七つに比べると抽象的である

他の七つの苦しみは、みんなに共通しているのに

これは個人的な差異を示している

(自分の意志に反して心身が思うにまかせられない苦しみ)

人間はこういう作用が働くという精神分析がされている

それが、苦しみを生んでいくというのも分かっている

五陰が苦しみを盛っていくというのだ

今の人達そのものじゃないか!と思った。

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2007年11月11日 (日)

恨み、怨み、憎悪について

俺は、子供の頃から何かを憎んでいた。自分を、自分の生まれた家、土地、家族、近所、学校、同級生、人を人間をそういう自覚はあった。

一方で信用していた、自分、家族、近所、親類、地域、学校、同級生、先輩、人、社会を。

信用し裏切られ、自分自身が裏切り、そういう憎しみを感じ、それが何か知ろうとしていた。

悪、業、自分の中に悪魔がいる、おれの悪魔は臆病で卑怯で、しかもずるいが、まっとうな事に手も足もでなくなりやがる。手も足もでない苦しみから逃げようとする為に、嘘、裏切り、無視、逃げ、目をそらし、恨み、辛みが増えるばかりだ。

俺の中の悪魔は、それが好物らしい。

ヤツのやり方は、その人間の憎悪をそいつから発散させドンドンと悪意を増徴させるやり方だ、恨みはさらに深い恨みを生んで、悲しみと怒りをばら撒くっていう事だ。

キリスト教も仏教も、自分の中の悪魔と戦うというのが、基本なのに敵を作ってしまうんだ、人は。

・・・デビルマンを読み返してたら、そんな事を思った。

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2007年10月 8日 (月)

マイナス思考

マイナス思考というのは、物事を悪く悪く考えてしまう。先の事も過ぎた事もという事。

じゃあ、プラス思考というのは何かというと物事を良く、うまく考えるという事。

こうやって、簡単にかいてみると、それぞれそんなに複雑なわけじゃない。

マイナスは、プラスを望み過ぎるから、発生するのが多いかもしれない、自分の今までの経験からそう思う。そのプラスの思考は、どっか望みすぎじゃないかと思うし、自分の都合ばかりで、自分勝手で自己中だと、結果的にまたマイナスが多く。マイナス思考ということになる。

つまり、自分の間違ったプラス思考が、それよりも多くのマイナス思考を生んでいるという事。

この前、久しぶりにボーリングをやる事があった、いつもスコアは、100を超えるぐらいであるが、ストライイクを出したいという欲が常にある。それで力んだり、すっぽ抜けたりうまくいかない。

そこでの2ゲーム目の途中で疲れてしまい、力が出ずただ真ん中にだけ投げようと弱い球投げていたら、ストライク出る出る、ターキーとか、で150超えたのはいつ以来かわからんぐらいだった。

なんか欲がぬけて、疲れて力まなくなったのがよかったのかもしれない。マイナス思考の正体は、結局そんな所かもしれない。

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2007年10月 5日 (金)

主体的な生き方を追求すると自然回帰的思想になっていく

ある本によると老子は、主体性論者で、常に主体的な生き方を追求した冷静な批判精神の表現である、との事。

古代中国において、というのは万物を支配する超自然的なものであり、個人自身でもあり、自然すべてであるというもので老子の道教の基本となっている。

それに対し社会性や国家政治という人間を中心に考えられてきたのが孔子の儒教であり、日本社会の基本理念は儒教から来ていると言っていい。

お隣、韓国はもっとその影響は色濃く、かえって今の中国には、共産主義の思想が強く本来の道徳にもとづいた儒教は感じられない。最近の中国はひどい評判だし。儒教は、政治的なので、時代が変わるとそのありようは変わってしまう。

しかし、自然回帰的な自然法則(社会、人事を含む)を基本とする道教は、孤高な精神的文化として脈々と生きていると思われる。

その懐疑的批判精神と社会からはみ出した、反社会性的姿勢を持っていたのが、道教、道家と呼ばれ、それに対するのが、儒家、孔子であった。

儒教は、君子つまり政治家や皇帝が国を治めるための教えである。それに対し、道家は個人的な主体性においての批判精神の表現であった。

例えばブルース・リーが燃えよドラゴンかなんかの中で、カンフーの教えを求める若者に対し、「考えるな、感じろ」といったセリフは、道教的だなぁと感じますな。

万物の根源、つまりあらゆる現象の背後にひそむ時空を超越した本体と、その運動法則を道タオと呼んだ。そしてそれは、無としかいいようのないあるものであるというギミックを持っている。

無為自然の無為とは、老子によるとそれは、自分を消すのではなくあくまで、主体的行為のあり方であり、それは自然の法則の巨大さを自覚し、それを認識して、その無為の道の働きと一体化することである。つまり自然の法則を把握しそれにのっとった生き方をするという事である。

それが、気であったり、中国武術の達人の超人的な技であったりそういう形で、あらゆる所に残っている。

しかし、そういった見えない力的思想もさることながら、やはり弁証法的な認識力だそうである。問いと答えとそしてまた、それを吟味するという問答という無知の知を知るための考えである事が評価されているのだそうだ。

古今東西の思想は、何らかの結論を強要していると言っていい、おれが宗教に馴染めないのはそのためだと思う、名の無い領域であるタオは、あなたが感じてくれ、こうだからこうじゃなく、そういう物なんだという感じである。

自然回帰的になっていくと当然、人間関係や利害関係もわずらわしくなっていくと思える。そういう意味で、老子は隠遁者的思想と見られるが、でもそうかもしれない、老子的な思想の爽快感を求めたら、社会的な事は捨てた方がいいことになる。

ただ生活観は、他の思想に比べるとやたらと感じてしまうのは、それが個人の心の有り様を示しているからだと思える。

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2007年5月 5日 (土)

抽象的思考の具体化が、絵や何か作品を作りたいと言う動機だった

芸術作品を見て、そういうものを描きたいとか作りたいとかやりたいと思ったのは、高校生以後だった。それまでにも芸術に触れる機会はあったんですが、クオリティの高い芸術作品を見て、そういう現代アート的なのをやりたいという衝動は20代になってからだった、しかし、アイデアスケッチを描いている時点で、それがマネでありパクリである事から作品として完成する事はなくなっていった。

次第に、作品を作る事の意味が、見出せないというかわからないのだ。作品を作りたいという衝動はあるのに、なぜ、何の為にやるのか答えがわからなかった。答えはないというか、動機が自分の中に見出せなかった。

職人的に才能として芸術的作品を作るという能力はない。

ある特定の作品との出会いや影響から、絵などを描き始めた訳ではない。

情熱的、エネルギッシュに作品に挑んでいくという姿勢もない。

メッセージや意義、使命感で人に大して表現するという意識もない。

何をしたいのかわからない。のに何かをしようともがくだけなので、溺れてしまい苦しくなって続かないのだが、その事が頭から離れない。

何が自分にとって、刺激になって興味を持ち、頭から離れず考えていたか?。それは、アートや芸術そのものではなく、精神的な事であり、抽象的な思想であり、哲学的な事なんだろうと思う。そしてそういう事を具体化したいというのが、自分の中の創作欲なんだというのが、30代の半ば頃になってようやく分かりはじめたのだ。

例えば、苦しみをうったえたとする。それが、どういう感じでどんなものなのか表したいのだ。その為に何をどうするかなのだ。つまり、自分の心の有り様がどうなのかを分かっている事が、重要であって、そこから何か作品を生み出せる人もいれば、別に作品化しない人もいる。自分は作品を生み出したい人なのだ。

例えば、絵の具をキャンパスなり、板に塗る事でその画面上に浮かんでくる現象が見ているこちら側に感覚的に感じさせ、感情を刺激するという事なのだ。

抽象的な感じとか思考の有り様というのが、自分自身の創作に結びついて来ていたとすると、おれはやはりそんなに深くなかったと思えてくる。

Redon31 例えば、このルドンの「閉じられた目」は高校生の頃から、この目を閉じ沈黙するという感じに魅力を感じていた。しかしこういう表情に潜んでいる物事をさぐる力がなかった。ので、こういう表情を描いても深みが足りないのだ。そして、ルドンのマネという域を超える事はない。

抽象的な思考の有り様の自由さ、に対する妨害的な要素は、固定観念であろうと思う。しかし、固定観念とは経験から蓄積されたものでもあるので、自由な発想というのは、難しい場合も多い。とにかく普通に現実的な社会に暮らしていこうとすれば、抽象的な思考の中で生きるのは難しいのだ。芸術家が社会不適合的であるのは、不適合になるような方向に気持ちが向いてしまうからである。

抽象的な思考の自由の中に生きられたらいいなぁ、とこの頃本当に思ってしまうが、それは今の自分の生活が嫌でつまらないという事につながっているのだろう。

おれが求めている、精神的な自由さを生きているのは、東京なんかで劇団とかやっている人達とか、ある特定の宗教にのめりこんでいる人だろうか?フリーターをしながら、作品を作って個展などやっている人だろうか、漫画家をめざし日夜アイデアを考えている人だろうか・・・引きこもりか・・、精神的な自由さを精神的に弱い人が手にいれようとしたら、失うものは大きいのかもしれないが、それは覚悟がいる。おれはその覚悟ができないでウジウジしていて、今でも中途半端なので、自由になれないでいる。

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2006年9月28日 (木)

孤独と言うイメージ

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暗さって、それ自体、各自独特の感覚があるだろう。

孤独だから暗いとも限らない、暗さに悲痛な思いがあるから暗いのか。

どうも、何か物語りを考えようとすると、悲痛感から孤独になる主人公ばかり思い浮かぶ。

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2006年9月26日 (火)

地球から何十光年か離れた所に、設置されたステーションがある。

外部からの刺激がなければまったくの無音、無臭の世界。 何年間に一度訪れるのは、メンテナンスを請け負う業者だけである。

そして、もしそんな仕事をする会社に入る人は、訳ありの人か、犯罪歴でもある人か、よっぽど給料がいいかである。

というか、その仕事に付いた時点で、その一回の航海のみで、何年間も費やすとなれば、そういう環境に耐えられるか?いずれにしろ、退屈や孤独、まんねりといった苦痛に、密閉された空間で人はどれだけ耐えられのだろうか?

SFでは、古典的に宇宙を移動中は、寝る。もしくは、ワープする。つまり、まんねりした時間は飛ばす事になっている。

実際、そこに宇宙人や何らかの事件が起こり、物語になるが、特に何にも起こらず、何年間に渡って宇宙に点在するステーションのメンテナンスするなんて仕事についたら、ぞっとする。

宇宙船自体が、会社で家族が同行、何百人。ステーション自体巨大で、、と設定すれば雰囲気も変わってくるけどね。

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2006年9月25日 (月)

夏が過ぎ、秋という感じになり そして冬は来るんだろうか

夕暮れが早い。見上げると暗闇に星も出ている。

犬の散歩をしなければならなくなってから、こうして夜空を見ていると虚構空間にいるみたいで心細い。

この宇宙に、ひとりぼっちの孤独な生活を強いられたとしたらどうなるのか。

何もかも、物は揃っている。生命の気配はある、植物もある。

ないのは人の気配である。完全な孤独であり、永遠の孤独である。

いつしか、人の気配とかそういうのも忘れてしまうかもしれない。

そして、孤独という感覚もなくなってしまうかもしれない。

いや、いっそう激しく孤独を感じ、この虚構空間に違和感が増すかもしれない。

それでも、人は何らかの狭い空間の中で、生きるのである。

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2006年9月15日 (金)

水溜りに2

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2006年9月14日 (木)

虚ろさとなるのだろう。

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2006年9月12日 (火)

水溜りに

Yasumi

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2006年8月24日 (木)

創作

何かを作る事を創作と言う。簡単に言うなら、おれは何か創作したいのだ。

ブログをやる前は、こんなひんぱんに絵らしいものを描く事はなくなっていた。というか漫画っぽいもの、もしくはイラストっぽいものを。30代は地味にコツコツと油絵を描いていた。その内写真を載せようと思うが、上手く撮れないのだ。

ブログを初めて、漫画っぽいもの、イラストを描いてみるとそのすべてが、イメージボード的なのだ。

ここ10年描いていた油絵は、行き当たりで画面上での絵としての展開のみを追及しようとした。反イメージ的、反妄想的であるように心がけた。何でか?絵という画面上の物理的展開を重視して変な先入観を排除したかったからだ。それなりに油絵は、そういう感覚で描けるようになった。油絵を描こうとすればそういう方向になる。

で、ここに来て漫画、イラストを描いてみると、素直な欲求だなと思えるようになっていた。素直な欲求を描こうとしている感じがある。つまり変な?先入観を描く心地よさが漫画にはある。

油絵は先入観、イメージ、空想の排除、目の前の現実的空間の存在感のみである。美術というのはそういう感覚があって、そういう強さがあればあるほど、作品としての物理的存在感が強烈なのだ。

漫画、イラストはイメージ、空想の世界だ、そういう面白さ忘れてたかもしれない。

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2006年8月23日 (水)

マイナス思考はプラス思考か?

おれはどちらかと言えば、マイナス思考の方が頭、脳、心をしめる割合が大きいんじゃないかと思う。すべてではない。そういう事もポイントがあり何らかの対象がある。

駄目と思ったらやらない、普通だろうか?やりたいならやってみる。だろうか?失敗から学ぶ。おれは失敗するとやめてしまう傾向がある。駄目だと思ってしまう。そうだろうか?それ以前に、その事自体をマイナス化してないか?その対象の欠点ばかり見つけて、否定的に見ようとしているんじゃないか?

じゃあ欠点がないのか?ある。しかも生きる事はそういう事を変えて行く事なのだから、自分に対してのその欠点を変えるのは当たり前の事なんだろう。そこが人と自分の違いとか個性になる、それが強ければ、ある対象に対するマイナス度も大きくなる。

マイナス=プラスに持っていくための思考の過程か?とも思う。マイナス思考の状態は答えのないモンモンとした苦しい状態である、そこから何らかの答えが出て、しかも具体的になっていくというのが、今までの経験上プラスというもんであったと思う。

硬い、まじめではあると思う自分は。それがマイナスだったり、ちょっとプラスになったりするんだろうな。

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